天才クールスレンダー美少女になりたい

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【全文公開】セカイとセカイをつなぐ【ボーカロイド文化の現在地】

2023年11月に刊行されたボカロ評論同人誌『ボーカロイド文化の現在地』に寄稿したプロセカ論です。プロセカ5周年に合わせて全体公開します。(もう2年経ったのか……)

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改めて読み返したんですが、自分の文章の割には比較的まともに書けてる気がしますね。4000字くらいなので一般論としてはそんなに長くもないですが、文字数足りない病に常に苦しんでいる私としては若干長めですらあり、当社比で内容のある議論ができていると思います(比較対象がショボすぎる)。何よりも、論証が若干弱いとはいえ多少新規性のあるテーゼを主張できてる時点で私にしては上出来でしょう。

そしてこれは完全に余談ですが、音ゲーのソシャゲの例としてユメステを完全に忘れていたのは秘密です。










スマートフォン向けゲーム『プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク』(以降『プロセカ』)は音楽ゲームを中核とするソーシャルゲームで、クリプトン社のボーカロイド6人と20人の登場人物が登場する。20人の登場人物は4人ずつ5組のユニットに分かれており、それぞれのユニットには「セカイ」と呼ばれる不思議な空間が存在している。「セカイ」とそこにいるバーチャル・シンガー(ボーカロイド)の姿は登場人物たちの「本当の想い」を映し出している。登場人物たちは現実世界と「セカイ」を行き来し、「セカイ」にいるバーチャル・シンガーたちのサポートを受けながら「本当の想い」を探すというストーリーだ。

ゲーム内で登場する楽曲はオリジナルの書き下ろし曲だけでなく一般のボカロ曲も多数含まれており、それも往年の名曲から最新の人気曲まで幅広い。長らくボカロを追っていなかったファンから『プロセカ』でボカロ文化に初めて接するリスナーまで、どの層でも楽しめるようになっている。

この文章を書いている今、9月30日に『プロセカ』は3周年を迎えた。もはや『プロセカ』に触れずに2023年のボカロ文化を語ることはできない。そこで、この文章では『プロセカ』とそれを支えるボカロ文化の特徴について論じる。

音楽コンテンツとしてのプロセカの特異性

そもそも、音楽やその関連ジャンルを題材とするコンテンツは数多く存在する。スマホの音楽ゲームとして展開されている(されていた)ものに絞っても、たとえばアイドルものだと『アイドルマスター』『ラブライブ!』『Tokyo 7th シスターズ』『あんさんぶるスターズ!』などがある。バンドものだと『BanG Dream!』が有名だし、ラップをテーマにした『ヒプノシスマイク』やDJをテーマにした『D4DJ』などのプロジェクトもある。音楽ゲームにはなっていないものの、同じくDJを扱ったコンテンツとして『電音部』も挙げられるだろう。

こういった類似コンテンツと比較したとき、『プロセカ』の特徴は何か。それは、登場するユニットごとに活動が全く違うということだ。

普通、たとえばアイドルものにはアイドルしか、バンドものにはバンドマンしか出てこない。にもかかわらず、『プロセカ』にはアイドルやバンドからストリート系、遊園地でショーを行う劇団、そしてインターネットの音楽グループまで、とにかく多種多様なユニットが登場する。これは他の類似コンテンツにない『プロセカ』の特異な点だ。

ただし、単に雑多な集団を登場させただけでは統一感がなく、一つのコンテンツとして成立させるのが難しい。それでは、『プロセカ』の多様なユニットを結び付けているのは何か。それはもちろん、ボカロという文化である。

そして、上述した『プロセカ』の特異性は、ボカロという文化の特異性と深くリンクしている。

ボカロというカテゴリそして文化

「ボカロ」あるいは「ボーカロイド」は多義的な言葉だが、ここでは最も広い用法として、合成音声ライブラリとそのキャラクター、そしてその歌声を使った音楽を指すことにする。ゆえに、ここには原義のVOCALOIDでないもの、すなわちヤマハの音声合成技術と関係ないものも含まれる。実際、「ボカロ文化の祭典」と銘打たれたニコニコ動画のコンテスト「ボカコレ」でもVOCALOID以外の曲が盛んに投稿されているので、ファンコミュニティがVOCALOIDとそれ以外で分断されてはいないと考えるのが妥当だろう。

さて、ここで考えたいのは、ボカロ音楽というカテゴリの特徴についてだ。

たとえば、ロックにしろジャズにしろ、それぞれのジャンルには特有の音楽的要素がある。明確に言語化するのは難しいかもしれないが、ともかく共通の特徴があるのは間違いない。一方、ボカロの特徴は「声がボカロであること」だ。これは馬鹿みたいなトートロジーに思えるが、実は本質を突いている。そもそも、どんなジャンルの曲でもボカロに歌わせればボカロ曲になるのだから、ボーカル以外の共通点など存在しようがない。

では、ボカロファンたちはボカロの音声的特徴、たとえば機械的な声音にボカロ曲の特徴を見出しているのだろうか。もちろんボカロの声が好きというファンは多いが、だからといって「同じ曲で声がボカロではなく人間になった途端にボカロファンの好みから外れる」とまでは思えない。事実、『プロセカ』でも人間によるカバーが「セカイver.」として自然に受容されている。あるいは、「ボカロに歌わせるからこそ意味がある」という歌詞の曲についてはボカロの声に本質的な意味があるといえるだろう。しかし、そうでない曲の方が圧倒的に多い以上、これも説明として十分ではない。

結局のところ、ボカロ曲の音楽的特徴は作者であるボカロPそれぞれの作風に由来する。ゆえに各ボカロPや「ボカロック」のようなサブジャンルに対してファンがいるのは音楽的特徴から理解できる。しかし、「ボカロ」全体のコミュニティがこれだけの規模で成立している事実を説明するには足りない。ファンとて一つのジャンルしか聴かないわけではないだろうが、その場合でも「いろんなジャンルの音楽が好き」ではなく「ボカロが好き」となるのはなぜか。

今までの議論に欠けているのは、ボカロがキャラクターコンテンツでもあるという視点だ。ボカロキャラクターたちの可愛さやかっこよさ、あるいは初音ミクに対する「電子の歌姫」のようなキャラクターイメージが多くのボカロPやファンに共有されていて、しかもそれはボカロそれぞれの声と密接に結び付いている。ボカロは確かに電子楽器なのだが、このような性質を持つ楽器は人類史上ほとんど類を見ない。「キャラクターイメージの共有」こそが、音楽的に雑多なボカロのコミュニティをゆるく一体化している最大の要因である。

仮に初音ミクなどのキャラクターが存在しないまま合成音声の音楽が発達した世界があったとして、その世界のボカロコミュニティはどんな姿になっていただろうか。これは私の想像だが、ボカロの音楽は先進的なテクノロジーを使う音楽として、現在の「AI生成芸術」と同様に受容されたのではないか。初期段階ではソフトウェア開発者が声のプリセットを提供するため、それぞれの声が仮想的な人格と紐付けられる可能性はある。現在の世界だとSiriなどの音声アシスタントが典型的な例で、Siriの声は常にSiriの声と認識される。しかし、やがて技術が発展し声の種類すら自由に生成できるようになれば、合成音声は脱人格化されるだろう。音楽家によっては「うちの子」ならぬ「うちの声」を生成して自分の曲に使い続けるかもしれないが、それはイラストレーターにとってのオリキャラのように、作家ごとに独立したものだ。初音ミクのような存在は出現し得ない。

そして、その世界では『プロセカ』も存在しなかっただろう。

セカイに溶け込むボカロ

キャラクターイメージの共有によって、ボカロは既存の音楽ジャンルを横断する文化となった。音楽的なジャンルを問わず、ボカロというだけで聴いてくれる人がいる。ファンも馴染みのないジャンルの曲を聴く機会があるし、その結果好みの幅が広がることもあるだろう。ジャンルの壁が低くなって、それぞれのセカイがつながる。『プロセカ』に音楽性の違う多様なユニットが登場するのは、そういうボカロ文化の現状を反映している。

これは一見もっともらしい説明だが、決定的に足りない部分がある。

プロセカのユニットは現時点で5組存在する。そのうち、ロックバンドである「Leo/need」やストリート系ユニットの「Vivid BAD SQUAD」は確かに特定の音楽ジャンルと結びついている。アイドルグループである「MORE MORE JUMP!」は、アイドル系ポップスという枠に位置づけられるだろうか。しかし、「ワンダーランズ×ショウタイム」は遊園地などでショーを行うミュージカル劇団だし、「25時、ナイトコードで。」はアンダーグラウンドなインターネット音楽制作集団だ。ここまでくると、ジャンルというよりは音楽を実践する方法が異なると言うべきだろう。今現在のボカロ文化のイメージに一番近いのは「25時、ナイトコードで。」で、逆にミュージカルはボカロとそこまで接点がない。このように、それぞれのユニットの背景には独自の文脈を持つ文化があり、それらは必ずしもボカロ文化と距離が近いわけではない。それでは、『プロセカ』はどうやって作品としての一体性を保っているのだろうか。

重要なのは、それぞれの文化すなわち「セカイ」が歌という一点において重なり合っているということだ。そして、ボカロはバーチャル・シンガーであり、外見や最低限の属性しか設定されていない。『プロセカ』の革命は、ボカロキャラクターを「セカイ」ごとに別の存在として、しかもその「セカイ」の文化を担うバーチャル・シンガーとして登場させたことにある(「25時、ナイトコードで。」は例外だが)。歌という根本的なレゾンデートルと衝突しない限り、ミクがアイドルをやっても、レンがDJをやっても、あるいはKAITOがミュージカル劇団の座長をやっても、ボカロの世界観は一切破壊されない。

5つのユニットはそれぞれの「セカイ」のバーチャル・シンガーたちに導かれ、ときにお互い共鳴しながら、自分たちが目指す方向に進んでいく。それぞれの歌の形を丁寧に描いた『プロセカ』が私たちに見せてくれているのは、歌を中心とするボカロ文化の真価にほかならない。

おわりに

「すごいな、ミクは。昔からずっと、どんな風にでもなれて、すごく——自由で」
Leo/needメインストーリー オープニング 星乃一歌

ボーカロイドはどんな曲でも歌える。ボーカロイドはどんな役でも演じられる。ボーカロイドはどんな物語でも担うことができる。

これらの「なんでもあり」こそがボカロという文化の本質だ。全てはボカロPを含むファンたちに懸かっている。そして、ボカロ文化を基盤に作られた『プロセカ』というゲームは、「なんでもあり」を存分に活かして多様な歌の形を描写することに成功した。

初音ミクの誕生から16年が経つ。ボカロという文化に導かれた人たちが、今もそれぞれの場所で歌に向き合っている——歌を作る人も歌う人も聴く人も、ボカロから離れた人もそうでない人も、皆が自分なりの形で。『プロセカ』はそんなボーカロイド文化の現在地を象徴するゲームである。