天才クールスレンダー美少女になりたい

チラシの表(なぜなら私はチラシの表にも印刷の上からメモを書くため)

【全文公開】那由多誰何の倫理学入門 【まちカドまぞく評論合同】

2022年の夏コミで頒布された合同誌『まちカドまぞく評論合同 まちカドのお楽しみ』に寄稿した謎の論考です。まちカドまぞくを倫理学の切り口から論じています。

まだ在庫があるそうなので、よろしければぜひ。他の記事も面白いですよ。

be-straighter.booth.pm

今になって読むと怪しい記述がちらほら見られるのですが、最低限としてケアの倫理関連の記述を若干修正し公開することにしました。たぶんまだまだダメな記述は残ってると思うんですが……詳しい本をちゃんと読む気力がない……というか文章も全体的に手直ししたい……面倒だからそのまんま放出するけど……


ところで、秋の文フリに向けてまぞく評論を書かないといけないんですよね。何もネタ思いつかない。ヤバい。どうしよう。













※この記事には、まちカドまぞく6巻の核心的なネタバレが含まれています












はじめに

スケールの大きい物語、緻密に描き込まれた伏線、生き生きとした日常描写。もはや、まちカドまぞくが世界一面白い漫画であることは誰の目にも明らかです[要出典]

そんな世界一おもろい漫画ことまちカドまぞくの6巻で、鮮烈な初登場を果たしたのが那由多(なゆた)誰何(すいか)でした。自らの正しさを確信している「最もドス黒い悪」——きらら作品ではあまり類を見ないキャラクター造形に驚愕した読者も多いでしょう。

彼女にはまだ謎が多いのですが、どうやら過去から現在まで多くの出来事に関与しているようです。彼女は千年単位で生きている魔法少女であり、千代田桃の本当の過去を直接知る1人です。千代田桜のいない間にせいいき桜ヶ丘のまぞくをたくさん殺害し、桃に「無力化」された後も何やら暗躍しているらしき描写があります。物語の最大の謎である「10年前の天災」に関与していたかは不明ですが、いずれにせよ彼女は物語の鍵を握るキーパーソンの1人だと言えるでしょう。そして、誰何の「極端な」思想が明かされた以上、彼女に対してシャミ子と桃がどう向き合うかは物語の焦点の1つとなるはずです。

そこで、誰何の過去や行動に関する考察は他の人や別稿に譲って、この記事では倫理学の視点から彼女の「正義」について検討することにします。

倫理学とは何か

※この記事では、「道徳」と「倫理」を同じ意味として扱います

そもそも、倫理学とは何でしょうか。

私たちは、普段「正しい」とか「間違っている」とかいった判断を下しながら生活しています。こういった判断の対象となる問題のことを「命題」と呼びます。たとえば、「まちカドまぞくの作者は伊藤いづもである」「まちカドまぞくは面白い漫画である」「人を殺すべきではない」などは全て命題ということになります。

さて、これらの命題は真、つまり正しいものでしょうか。1つ目の「まちカドまぞくの作者は伊藤いづもである」は間違いなく正しいですね。誰も文句のつけられない客観的な事実ですから。では、2つ目の「まちカドまぞくは面白い漫画である」はどうでしょう。こんな合同誌に寄稿している時点で当然私はまちカドまぞくを面白い漫画と思っているわけですが——というか冒頭にそう書きました——、中には「まちカドまぞくなんて全然面白くないじゃないか」という人だっていないとは限りません。この命題には「面白い」という価値に関する判断が含まれるため、客観的な判断は不可能です。

それでは、3つ目の「人を殺すべきではない」はどうでしょうか。「するべきでない」あるいは「悪い」というのは、「面白い」と同様に価値判断です。とはいえ、ここでの「するべきでない」と「面白い」が全く同じレベルの話というのは、さすがにしっくりこないのが普通だと思います。その理由を端的に説明すると、「面白い」が倫理とか道徳と無関係なのに対し「悪い」は倫理・道徳に関する判断だから、となるでしょう。
「じゃあ、その倫理とか道徳って何」と思うかもしれませんが、この問題自体が実は倫理学の大問題で、「メタ倫理学」という分野で扱われるものです。学問分野が1つできるレベルの大問題なので、ここではとりあえず見なかったことにします。*1

初めの問題に立ち返りましょう。倫理学とは、倫理的な価値判断について考える学問です。さっきの例でいうと、3つ目のような命題について考えるものです。さらに付け加えると、ただ考えるだけでなく、「できる限り根拠を問う」「筋道を通して誰でも納得できるような論理を展開する」といった哲学の思考法を使うのが倫理学の特徴です。つまり、たとえば「信じる宗教の教義がそうなっているから」「法律でそう決まっているから」「尊敬している人がそう言っているから」というのは、個人の信条としてはともかく、倫理学の理論としては落第ということです。

那由多誰何の思想

倫理学の議論を展開する前に、まちカドまぞく6巻から読み取れる那由多誰何の思想についてまとめておきましょう。

「幸せ」の肯定、「痛み」「悲しみ」「かわいそう」の否定

彼女の思想の根幹にあるのは、苦痛や悲しみ、そして「かわいそう」なものの否定です。その否定の度合いは、「かわいそう」という理由で動物の肉どころか固形物すら一切食べないほどです。ビーガンどころの騒ぎじゃありません。彼女レベルになると極端ですが、感性自体は一般的なものだと思います。

絶対世界滅ぼすガール

そして、極端な彼女はついに「悲しみが存在するのが許せない」と言い始めました。言いたいこと自体は理解できるものの、そもそも「悲しみのない世界」というのはまず実現不可能です。彼女の発言から察するに、「悲しい別れ」すらも「消し去りたい悲しみ」と考えていることが分かります。ここまでくると、もう世界を滅ぼすしかありません。

かくして、悲しみを消滅させるために世界を滅ぼそうとするラスボス・那由多誰何が誕生したというわけです。

Suica mundum dēlendum cēnsuit.

スイカは述べた、世界は滅ぶべきであると。

世界滅ぶべし。では、いかにして?

それでは、「かわいそう」を世界から消し去る、すなわち世界を滅ぼすために、誰何は具体的に何をしているのでしょうか。

実際のところ、このあたりは不明点が多いです。彼女のものとして確実な行動には「まぞくを殺して回る」というものがありますが、彼女は「『かわいそう』を根絶する」ために「見かけた魔族(エサ)は全部食べて」いると言っています。この2つは明確に目的と手段の関係にあるということです。

単に「かわいそうな魔族(エサ)」を「介錯」する「死は救済」方式なのか*2、それとも「魔族(エサ)を食べて大量にカードを貯め、それを使って世界を滅ぼす」ということなのか、はたまたそれ以外か。今後の新情報やさらなる考察が待たれるところです。

めちゃくちゃ雑な功利主義入門

彼女の思想をある程度整理したところで、倫理学の議論に入っていきましょう。倫理学にも様々な立場がありますが、結論から言うと彼女の思想に似ている立場は功利主義です。そこで、まずは功利主義とは何かをざっと説明することにします。

倫理学において、主要な立場は3つあります。1つが帰結主義で、行為の善悪を、それが生み出した結果のみで判断する立場です。それと対立する2つ目の立場に義務論があります。これは、行為の善悪を、行為自体や意図が何らかの義務にかなっているかで判断します。義務論とひとくちに言っても多様な立場があるのですが、どれも意図と行為を結果より重視する点、義務というものを善悪の判断の基礎に置く点が共通しています。3つ目の立場は徳倫理学で、これは行為や意図や結果ではなく行為者の人格、すなわち「徳のある善い人間」であることを重視するものです。

さて、功利主義(utilitarianism)とは、行為が生み出す功利(utility)によって善悪を定義する立場です。功利というのは聞き馴染みのない言葉だと思いますが、一般的には幸福のことです。端的に言えば「みんなが幸福になるように行動せよ」というわけです。これは善悪を結果だけで判断する立場、帰結主義の一種だといえます。

功利主義にもいろいろバージョンがありますが、一番シンプルなものでは「幸福の総和」を増やす行為を善とします。もちろん幸福を数値化することはできないので、「この行為による不幸は小さい、逆に幸福は大きい」といった判断をすることになります。こういった判断を功利計算と呼びます。幸福や不幸の比較は個人レベルだと「合理的な判断」とされますが、そういった合理性を社会全体に拡張することで倫理を語れるわけです。

たとえば、功利主義の立場では、殺人が悪いのは不幸を生み出すからということになります。逆に、人助けが善いことであるのは幸福を生み出すからです。こういったふうに、様々な問題を一貫した論理で解決できるのが功利主義の魅力といえるでしょう。

功利主義への批判

これだけだとそれなりに筋が通っているように見えますが、当然ながら批判も存在します。代表的なものは、「多数のわずかな幸福のために1人を不幸にするのを許容するのか」ということです。確かに、「幸福の総和」を考えるならそれも許容されると考えるほかありません。しかし、一般的な道徳的直観に従えば、そういう状況は不公平で非倫理的だと思う人が多いでしょう*3

これに関連する批判として、「功利主義では絶対的な権利を考えられないじゃないか」というものがあります。つまり、功利主義では殺人は不幸を生むから悪なのであって、そのロジックに「生きる権利」や「人を殺さない義務」といった絶対的なものは出てきません。「人を殺した方がいい状況」があったとしたら*4、功利主義の原則に従えばその状況での殺人は善ということになります。そういう状況は例外中の例外で実際にはほぼ起きそうにないですが、功利主義の批判者はそういう可能性を懸念材料と主張しているわけです。

功利主義、バージョン2

もちろん、功利主義者だってそういった批判は重々承知していて、功利主義をやや変形した理論が生み出されています。ここでは詳しく説明しませんが、規則功利主義やリチャード・ヘアの「二層理論」などが有名です。特に後者に関しては、それなりに妥当な理論として認識されているようです。また、功利主義に「公平」という概念を追加して、「公平さ」を実現するような行為を善と考えるような理論もあります。

ただ、ここで紹介したいのは「負の功利主義」と呼ばれている思想です。「ネガティブ功利主義」「マイナス功利主義」「消極的功利主義」と呼ばれることもあります。

功利主義というのは、一般に幸福と不幸や苦痛を比較して善悪を判断しようという立場です。しかし、はたして幸福と苦痛というのは等価なものでしょうか。つまり、苦痛を幸福で帳消しにするような議論が許容されるでしょうか。

そうではないと考えた人によって提唱されたのが「負の功利主義」で、功利計算において幸福の量は一切考慮されるべきではないと考えます。つまり、幸福とか快楽とかいったものを無視して、単に苦痛の合計を最小化するべきということです。この論理だと、ある人の大きな苦痛を軽減するために別の人に若干の苦痛を与えるのは善といえる一方、ある人を幸福にするために別の人に若干の苦痛を与えるのは明確に悪となります。確かに、この論理なら公平性など考えずとも「多数派を幸せにするために少数派が不幸になる」という状態を悪と定義することができますね。

これは一見妥当な基準のように見えますが、反論がいくつかあります。まずは、どこからが苦痛や不幸でどこからが快楽や幸福なのか線引きするのが困難ということ*5。そしてもう1つは、それなら苦痛を与えず全人類を(正確には苦痛を感じうる動物全て)を苦痛すら与えず一瞬で抹殺できるなら、そちらの方が苦痛が最小になって善という結論が出てしまうという問題。

ただし、ここで議題に上がっているような「世界の安楽死」というのは、思考実験ならともかく、現実的には不可能です。実際に試みれば、それは猛烈な苦痛を生み出す結果になるでしょうし、そもそも人類だけ滅亡させる立場ならともかく、生命全体を絶滅させるのはまず不可能です*6。幾度もの大量絶滅を乗り越えてきた生命というものは、人々が思うより図太いものです。摂氏1兆度の火球でも使えば滅ぼせるかもしれませんが……。

反出生主義

負の功利主義と関連して、反出生主義についても軽く触れておきます。

反出生主義と呼ばれるものは、実のところ無数の異なる思想の総称です。そのうち負の功利主義を基礎とする反出生主義は、「出産は道徳的に悪」という主張を根幹とします。出産してしまえば多少の幸福で帳消しにできない苦痛を赤ちゃんが将来にわたって体験することになり、これは出産せず苦痛が存在しない(そもそも苦痛を感じる主体が存在しない)より悪というのです。

なお、負の功利主義と反出生主義はイコールではありません。たとえば、反出生主義で一番有名なデイヴィッド・ベネターは似た主張をしていますが功利主義者ではありませんし、逆に負の功利主義を唱える人が反出生主義を肯定しているとも限りません。

「邪悪な哲学者」の安楽死理論

さらに別の功利主義者の具体例として、ピーター・シンガーという哲学者の話をしようと思います。彼は功利主義の観点から動物の解放を訴えていて、具体的には大規模な畜産業や動物実験の実質的な廃止を要求しています。
こう書くとなんとなく動物愛護団体と立場が似ているように思えますが、彼の主張に「かわいそう」という要素が一切入っていないことは注意するべきです。彼は、動物の苦痛も人間と同様に取り扱うべきで、かつ全ての生物の苦痛に反対しているだけです。

つまり、逆に言えば苦痛を与えない限り動物を殺してもいいということになります。そして、動物と人間の取り扱いを変える根拠がないと主張する以上、この考え方は人間にすら適用できてしまいます。つまり、たとえば重度の障害新生児が苦痛に満ちた短い生涯を送るくらいなら、苦痛を減らすためにさっさと安楽死させるべきだという結論になります。新生児は「死ぬのが怖い」と思わないはずで、苦痛の除去の方が優先されるべきだというのです。もちろん、新生児の安楽死が周囲に与える苦痛や悲しみも考慮されるので、場合によっては苦痛に満ちた生涯をなすがままに送らせた方がいいかもしれませんが。

まあ、こんなことを言えば批判を浴びるのは当然ですよね。実際、彼は障害者団体から「障害者の権利を否定している」として強く批判されています。とはいえ、彼の立場は実のところかなり論理的に首尾一貫していて、案外反証するのは難しいのですが*7

功利主義者、那由多誰何

そろそろ、まちカドまぞくの話に戻りましょう。

那由多誰何は「かわいそう」を全否定しますが、これはとても潔癖症かつ強迫的です。さっき触れた負の功利主義とやや近い主張です。ただし、彼女は世界の滅亡を肯定します。世界が滅んだ状態は完全な無であって、快楽や幸福と苦痛や不幸の線引きなんて一切悩む必要がなくなります。どこで線を引いたとしても、現在の苦痛は0ではないし、世界が滅んだ後の苦痛は0になり、「原始海洋に戻す」ことは基準によらず善と主張できるでしょう。補足しておくと、誰何は単なる人類絶滅ではなく原始海洋に戻すことを提案しており、動物の苦痛*8も全て消し去るつもりだと思います。ただし、彼女が反出生主義者かは不明で、少なくとも作中でそういった主張はしてはいません。また、シンガー流の功利主義にも、誰何の思想とやや似た部分が見受けられます。

他にも、那由多誰何が功利主義的な思想を持っているという傍証はあります。まぞくを殺してカードを大量に保有している誰何は、桜がヨシュアを封印したときのカードを手元に抱えている桃が自分と「本質的に同類」と言っています。もちろん、誰何は桜や桃と違って故意にまぞくを殺しているわけで、桃や桜とは全く違うレベルの話だというのが一般的な感覚でしょう。桜が故意にまぞくを封印・殺害したのだと誰何が勘違いしていた可能性もゼロではないかもしれませんが、いずれにせよ桃は無実です。

しかし、功利主義は帰結主義の代表例です。帰結主義というのは「意図はどうでもいい、結果が全て」ですので、那由多誰何が功利主義者ならこの反応にも納得できます。少なくとも、帰結主義者ではあるといえるでしょう。

反出生主義との関係

一見すると、那由多誰何の思想は反出生主義と似ているようにも思えます。特に、「マイナスの部分があるくらいならプラスもマイナスも存在しない方がマシだ」というコアの主張は反出生主義でも頻出の議論です。

ただし、反出生主義は、基本的に「出産」と「誕生」に関する思想です。つまり、「存在しなかったものが存在するようになる」ことに対する議論なのです。一方、那由多誰何の主張は「存在しているものが存在しなくなる」ことに関するものです。いくら反出生主義が多様とはいえ、「存在を生み出さないことで最終的に滅亡させる」ならともかく「積極的に人類を滅ぼそう」と主張する人は滅多に見ません。

批判の可能性

それでは、彼女の思想を批判することが可能かどうかを検討してみましょう。

功利主義からの批判

さっき、シンガーと那由多誰何の思想には似た部分があると言いました。しかし、実際には違うところがあり、その違いは功利主義的にもかなり重大です。

那由多誰何が一番の基準としているのは、「かわいそう」という尺度です。つまり、「かわいそう」かどうかを決めるのは彼女ということになり、これはとても独善的で傲慢だとしか言えません。確かに、特に功利主義で「個人間の幸福など、どうやって比較できるのか」という深刻な大問題が発生するのは事実です。しかし、いくらこの問題の解決が困難だからといって、開き直って「究極的には分からないから、決めるのはぼく!」なんて解答を出せば非難轟々でしょう。独善的というだけでなく、たとえばまぞくに関しては彼女の「かわいそう」という評価が当事者の認識と大きく食い違っており、尺度として不適当です。

ただし、この指摘では彼女を説得することはできません。第一に、「かわいそう」以外の理由があればこの理屈が通用しないからです。たとえば、まぞくの殺害に関して彼女の台詞を厳密に読めば、その理由が「かわいそう」だからとは言っていません。これは誰何の思想を整理したときにも書きましたが、「かわいそう」の根絶という大きな目的のために単なる手段として実行している可能性もあります。もちろん、まぞくが「かわいそうだから死でもって救済してあげなきゃ」というだけの理由かもしれず、その場合は彼女の独善を非難できる余地がありますが。

第二に、彼女は自分の行動が悪だと自覚している節があります。たとえば、彼女は自分の行動が「悲しみを量産」していることを認めています。いくら記憶操作で「なかったこと」にしても、悲しみを生み出した事実は消えないと認識していていそうです。他にも、記憶を消せば「一旦」かわいそうじゃないとか、呑んだ魔族のことは一人たりとも忘れていないとか、どうも「いくら善なる目的のためとはいえ手段は悪だし、せめて多少はかわいそうじゃないようにしよう、自分なりの筋は通そう」みたいな雰囲気を感じます。

いずれにせよ、彼女の行動を批判することは比較的簡単です。彼女の行動原理と矛盾しまくっているからです。しかし、彼女は目的のために手段を選ばない人間で、自分が善と信じる目的のために自覚的に悪を遂行しています。そんな相手を「あんたのやったことは悪だ」と糾弾しても効果がありません。

それでは、彼女の根本の原理と目的についてはどうでしょう。つまり、「善なる目的のためなら悪すら許される」と「世界滅亡は善」の2つです。

もちろん、この2つを他の立場から批判することはいくらでも可能です。たとえば、カント的な義務論は「他人をその人自身が許容しない方法で目的達成の道具として使う」ことを否定するため、目的が善であろうと彼女の悪は許容されません。あるいは功利主義的に「世界を滅ぼすと幸福の総和が下がるから悪」と主張することもできます。

しかし、彼女の考えに根本的な誤りがあると納得させるのはとても困難です。彼女は「苦痛は悪」とか「苦痛があるのは悪、幸福がないのは悪ではない」などの前提から「世界を滅ぼすのは善」という結論を導いています。これらの前提は彼女にとっては自明に正しいわけで、それを否定する別の前提から論理を展開したところで「わかりあえないね」と言われておしまいです。

那由多誰何は自らの正しさを保証してくれる論理的一貫性にこだわっているので、逆に彼女の論理が一貫していないと指摘できれば、彼女は誤りを認めざるを得ないでしょう。つまり、より根本的な前提から出発して彼女の前提を否定するか、彼女の論理に誤りがあると立証するか。しかし、これはそう簡単なことではありません。

形而下の議論、形而上の議論

ところで、経験や感覚を超えた範囲のものを扱う哲学を形而上学と言います。これの主要なテーマは「存在」に関する問題です。一方、功利主義に限らず、倫理学というものは一般に経験や感覚の範囲で論じられます*9。実際、ここまで見てきたように、形而上学的な議論なしでも殺人を悪とする論理は十分展開できます。しかし、殺人の問題に「存在の消滅は悪か」という形而上の問題が隠れていることに変わりはないし、人間の常識を超える仮想的な状況ではそういう形而上の問題が表面化してくるのだと思います。

「存在の消滅」というのは、端的に言えば死のことです。「死は悪である」と直感的に考えたとして、その「悪」の被害を受ける当人はもう存在していないはずです。このことをどう考えればいいのでしょうか。

私の手に負えないので今回はこれ以上踏み込みませんが、こういった問題に向き合ってきた「死の哲学」の知見を参照すれば、より深い考察ができるのではないでしょうか。根本的な原理から彼女の前提を否定できる可能性はゼロではありません*10

結局、シャミ子と桃はどうすべきか

どんどん話が難しい方向に飛んでいってしまったので、最後に具体的な話をしましょう。このままでは読者に「へー、で、結局何が言いたかったの?」って言われてしまいそうですし。ここまで「なるほどわからん」と斜め読みしていた人も、よろしければこの節だけでも読んでいただければと思います。

そもそも、めちゃくちゃ当たり前なことを言いますが、シャミ子も桃も思想家ではありませんし、思想ラップバトルを仕掛けられているわけでもありません。ここまで長々と書いたような考察など、彼女たちには必要ないはずです。今の桃とシャミ子にとって一番大事なのは、身近な世界——「まちかど」であったり、この街であったり、周囲の人々であったり——を守ることです。だから当然、二人は那由多誰何と相容れません。また、シャミ子は「自分の方が桃のことを分かっている」と誰何に張り合っています(「解釈違い」)。こういう素朴な感情は、ともすれば今まで議論したようなガチガチの論理に比べれば弱いように感じるかもしれません。

しかし、実はそういう素朴な感覚を出発点とする倫理の理論があります。この記事の功利主義入門の節で名前だけ出てきた、徳倫理学です。

たとえば、善行を積んでいる人が、実は思いやりの感情なんて一切なく、ただ「それが義務だから」とか「そうすると世界の幸福が増えるから」という理由で行動していたとしたら、どうでしょうか。人によっては「そんな無機質な人間、いくらやってることが善でも道徳的な人間とは言わないよ」という気持ちになったかもしれません。つまり、功利主義をはじめとする帰結主義にしろ、義務論にしろ、「とにかく理性で普遍的に考えよう」という傾向がとても強いのです。いわば「頭でっかち」で「冷淡」だというわけです。徳倫理学はそういう既存の理論を批判するものとして登場し、今では帰結主義や義務論と並ぶ倫理学の3つ目のアプローチとしての地位を確立しています。徳倫理学の立場では、行動やその結果ではなく行為者の感情や性格、より具体的に言えば「徳のある善い人であること」を重視し、倫理や規則について頭で考えることをほぼ要求しません。善なる人であれば考えなくても善い行いができるという論理です。

また、倫理に関する立場としてケアの倫理というものもあります。これは、普遍的な基準を元に正義を考える「ドライ」な倫理ではなく、それぞれの場に応じて愛情や思いやりをもとに臨機応変に対応することを是とする立場です*11

少々話が横道に逸れましたが、とことん近代の発想でガチガチの論理に基づいて行動する那由多誰何と比べて、比較的素朴な愛情などに基づいて行動するシャミ子や桃が倫理的な議論において弱いかというと、そうとも言い切れないという話でした。那由多誰何が功利主義者だとすれば、シャミ子はケアの倫理の体現者ですから、まちカドまぞくの根幹には功利主義とケアの倫理の対立があるということになります[要出典]

では、シャミ子と桃は具体的にはどうするべきでしょうか。那由多誰何に思想バトルを仕掛けて改心させるのが困難であることは既に議論したので、それ以外の方法を取るしかないでしょう。

考えられる1つ目は、これは様々な物語でよくある展開ですが、相容れない者同士が戦って実力で決着をつけるパターンです。以前の桃なら間違いなくこの路線でしょう。

もう2つは、なんとかして彼女を改心させる展開です。彼女の状態は、魔法少女用語ではなく一般的な意味での「闇堕ち」と表現できます*12。確固たる根拠があるわけではありませんが、那由多誰何さんの精神はおそらくボロボロで、それを理性や論理というギプスで補強している状態なのではないでしょうか。シャミ子は人に寄り添うのが得意ですし、それに適した強い能力も持っています。シャミ子が今後成長すれば、那由多誰何というラスボス相手ですら「弱みにつけこむ」、すなわち寄り添えるのではないか——そう考えるのは期待しすぎでしょうか。でも、シャミ子が今まで通りケアの倫理を実践するなら、そういう展開も十分考えられると思うのです。

いずれにせよ、今後も世界一面白い漫画・まちカドまぞくから目が離せません。

おわりに

ここまで散々有識者かのように長広舌をふるってきましたが、実のところ倫理学に入門したのはつい最近です。前々から興味はありましたが、今回のネタを思い付いていなければ先延ばしにしていたと思います。そんなわけで、初心者ゆえの至らない点、議論に誤りがある点などもたくさんあると思いますが*13、ご容赦ください。一応、可能な範囲で最大限頭を使って書いたつもりです。

以上、最近おぐ良の供給が突然増えて大歓喜しているオタクがお送りしました。

参考文献

  • 伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』名古屋大学出版会、2008年
  • 伊藤いづも『まちカドまぞく 3』芳文社、2017年
  • 伊藤いづも『まちカドまぞく 6』芳文社、2021年
  • 森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか? ——生命の哲学へ!』筑摩書房、2020年
  • 川上未映子、永井均「生まれることは悪いことか? では産むことは? 【特別対談】川上未映子×永井均 反出生主義は可能か〜シオラン、べネター、善百合子」2020年 https://web.kawade.co.jp/bungei/3600/、2022年7月5日閲覧
  • 「ネガティブ功利主義とは」https://therealarg.blogspot.com/2017/11/blog-post.html、2022年7月4日閲覧

*1:たとえば、倫理的判断の本質を「違う考えの人に自分の考えを通そうとすること」と規定する立場を情動主義というのですが、この立場だと「面白い」と「善い」がほぼ同じになります。何かを「面白い」と主張するとき、普通は多かれ少なかれ相手を説得したいと思っているはずですから。もちろん、情動主義は他のメタ倫理学の理論から「その定義じゃ道徳の範囲が広すぎる」と批判されています。

*2:3巻60ページのリリスの発言によると、封印された彼女は長い時間を虚無の空間で過ごしたようです。そういう状態は「かわいそう」だというのが封印ではなく殺害を選んでいる理由なのだと思います。

*3:ここまで素朴な功利主義者はさすがに滅多にいない気もしますが。

*4:念のため言っておくと、周囲への影響を考えれば「人を殺した方がいい状況」なんてまず起きません。たとえば、被害者の知り合いは不幸や苦痛を感じます。では身寄りがない人なら殺していいかというと、私見ですが、「そういう人なら殺していい」という社会がもたらす不安や苦痛は十分に大きく、全く正当化できないと思います。

*5:これに関しては、認知科学の理論によって苦痛と快楽が別だと主張するという解決策があるかもしれません。私は認知科学に詳しくないので詳細は読者の演習問題とします。

*6:たとえば、デイビッド・ピアースという哲学者は、積極的な絶滅を否定し、トランスヒューマニズムによる苦痛の除去を主張しています。技術的な問題はあれど、苦痛を感じないよう身体を改造するのは積極的な絶滅よりは現実的に見えます。

*7:そもそも、障害者団体のいう「障害者」とシンガーの「重度の障害者」はレベルが違う気がします。彼の論理だと、たとえばダウン症患者は「苦痛に満ちた短い生涯を送る」とまでは言えず、故にダウン症新生児の安楽死は正当化できません。実際には出生前診断でダウン症と判明した胎児の多くが中絶されており、障害者の生きる権利という視点ではこちらの方がよほど深刻で難しい問題だと思います。彼の主張が優生学を想起させるのは事実ですが、主張の内実は実はそうでもないというのが私の理解です。知らんけど。

*8:動物に感情がなくとも苦痛はあるし、誰何的には食物連鎖自体が「かわいそう」ということでしょう。

*9:その点、カントの義務論は形而上学に立脚していて、かなり例外的な気がします。

*10:たとえば、森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか? ——生命の哲学へ!』ではベネター式反出生主義に対し存在論的に反論しています。私にその批判の正当性を吟味する能力はありませんが……

*11:近代では杓子定規な平等とか権利とか義務とかの概念を導入することで、ようやく差別が多少なりとも抑制されるようになりました。そういった流れを踏まえると、徳倫理学やケアの倫理は時代を逆行させ無意識の差別を促進する恐れがあると批判されることがあります。ただし、少なくともケアの倫理は「普遍的な正義という思想自体が差別的な構造を温存してきた」という問題意識から来るものであり、それまでの倫理学とは別の観点から差別や非対称性の問題を扱った理論であることは明記しておきます。そうじゃないと誠実じゃないので。

*12:もしかしたら魔法少女的にも闇堕ちしてるのかもしれませんが。

*13:特に徳倫理学とケアの倫理のあたり、その中でも徳倫理学とケアの倫理の立ち位置や関係をどう整理すればいいか全然分かっていません。