天才クールスレンダー美少女になりたい

チラシの表(なぜなら私はチラシの表にも印刷の上からメモを書くため)

#二外はロシア語へ

 正直に言うと、合格と分かってもしばらくほとんど実感が湧かなかった。


 合格発表、高校への報告、webサイトでの手続き。時代の流れなのか、今はもう合格通知書すら紙で送ってはくれないらしい。デジタルの情報をやり取りしている間、私は「何かの間違いかもしれない」なんて思っていた。高校の先生も合格をちゃんと確認してくれたのに、それでも現実感が希薄だった。

 ただ、入学手続き関連の書類は未だに紙だ。だったら合格通知書くらい同封してもいいと思うのだが。

 とにかく、書類が届いて初めて、私は合格を実感した。


 書類は届いたけれど、今すぐ必要事項を記入して郵送する気力はなかった。ここ数日ずっと張り詰めていて、精神的にもだいぶ疲れていたんだと思う。それにもう夜だし、こういう重要書類を慌てて書いてもいいことはない。

 風呂から上がった私はベッドに倒れ込み、目を閉じる。私の意識は急速に闇へ落ちていった。






 不思議な空間にいる。

 何かのホールだろうか。天井が高く解放感のある構造で、テーブルと椅子が整然と並んでいた。ガラス張りでない部分の壁は茶色がかっていて、なんとなく木造建築を思わせる落ち着きがある。いや、「落ち着く」と評するには解放感が強すぎるか。

 そこまで考えて、私は正面に視線を戻す。さっきまで誰もいなかったはずのそこに、メイド服の少女が立っていた。

 ああ、夢なのか。夢だから理解不能なことが起きるのだ。そう納得してしまえば、彼女と私が謎の場所にいることは気にならなくなった。

 大事なのは、彼女が何者かということ。

「えっと……。どなたですか?」

 そう聞いた私に、彼女は答えた。

「我が名はリローシャ。東京大学理系ロシア語クラス、略して『理ロシ』で看板娘をやらせてもらっているぞ」




「りろーしゃ?」
「そう、我が名はリローシャだ」

 外国語の名前だろうか。少なくとも日本語ではなさそうだった。

「東大?」
「そう、東大だ」
「りろし?」
「理系ロシア語クラス、略して『理ロシ』。ロシア語を選択した理系学生の総称なのだ」

 東大ってどこだっけ。そうか、私が合格した大学か。

「いや、なんでメイド服?」
「これはメイド服ではない。ソ連の学生服だ」
「どう見てもメイド服なのに……」
「気になるならググるといい。日本語でも情報は出てくる」
「それと……。その髪飾りは?」
「鎌と槌、そして星だ。共産主義のシンボルだな」
共産主義者なの?」
「いいや」
「なんで?」

 たぶん、突っ込むべきところはそこじゃない。でも夢の中だからか思考がふわふわして、他に何も思いつかない。

「さて、本題に入ろう」
「本題?」
「あなたも春から東大生、理科一類の学生になる」
「……ああ、そうだっけ」
「実感がなさそうだな」
「ないよ」
「まあ良い。そんなものは後から付いてくる。そんなことより、もっと大事なことがあるのだ」
「大事なこと?」

 大事なこと。やはりサークル選びだろうか。あくまで物語の中とはいえ、大学のサークルの雰囲気は多少知っていた。その選択によって大学生活がかなり変わるとかなんとか。

「二外の選択だ」
「えっと、第二外国語のこと?」
「そうだ。東大生ならば、英語以外に外国語を1つ選ばなければならない」

 第二外国語というものの存在自体は私も知っていた。でも、そうか、選ばないといけないのか。どうせ理系だから英語しか使わないのに。まあでも、必修なら仕方ない。どうせなら簡単な言語、あるいは役に立ちそうな言語にしよう。

「それで、あなたにはロシア語を選んでほしいと思っておる」
「ロシア語?」
「知らないのか」
「いや、知ってるといえば知ってるけど」

 知らない人はさすがにいないだろう。理系だってセンター試験で社会を1科目は受験する必要がある。というかこれは社会常識レベルか。

「なら話が早い。第二外国語でロシア語を選択してほしいのだ」
「ロシア語って簡単なの?」
「……ここで頷いてしまうと、我は詐欺罪で逮捕されかねないな」
「つまり難しいんだ」
「……簡単ではないが、二外なんてどこも似たようなものだぞ。たとえばスペイン語を選んだ友人も大概苦しんでおった」
「そんな……」

 大学に入っても語学から逃げられないのか。英語は必要だから苦しんで耐えたけど、これ以上追加されるなんて聞いていない。

「じゃあ、ロシア語って役に立つの?」
ロシア文学が原語で読めるようになるぞ」
ドストエフスキーとかトルストイとか?」
「そうだ。プーシキンとかもな」
「リローシャさんは読めるの?」
「……読めない」
「え」
「我はロシア語が苦手なのだ」
「じゃあ、ロシア文学が読めるってのは嘘?」
「嘘ではないが、ちゃんと勉強する必要があるな……」

 まあ、考えてみれば当たり前の話だ。6年間それなりに勉強した英語ですら、物語文はあまり読めるようにならなかった。第二外国語ならなおさらだろう。

「じゃあ、宇宙開発に興味はないか?」
「まあ、多少はあるけど」
「宇宙開発といえばソ連・ロシアだ。ロシア語ができればいいことがあるかもしれん」
「あるかなあ」
「……正直、あまりない気がするな」
「ダメじゃん」
「とはいえ、二外なんてどれを選んでも大して変わらんのだ、なんとなく『ちょっと縁がありそう』くらいの理由で選んでも罰は当たらんぞ」
「それはまあ、そうかもしれないけど」
「物理学が好きなら、ランダウとリフシッツというソ連の物理学者による有名な物理学の教科書がある。『理論物理学教程』というやつだ。もちろん元はロシア語だ」
「あー、どこかで名前を聞いたことがあるような」
「そうかそうか。好きなキャラにロシア人はいないか?」
「……何人か、いる」
「なるほど。あなたが思っているより、あなたの人生はロシア語と接点があるようだな」
「でもさすがに中国語とかフランス語とかドイツ語とかの方が接点あると思う」
「……」

 リローシャさんは黙ってしまった。ちょっと悪いことをしてしまった気がする。


 しばらく経ってリローシャさんが再起動した。

「我も、ロシア語を選んで良かったことを思い出していたのだが」
「あるの?」
「ああ。ロシア語の授業を担当する先生は当然、ロシア語やそれに関係する分野を専門に研究している人ばかりだ。文学とか政治とか歴史とか」
「そりゃそうだよね」
「あなたはロシア語が使われている国々について、どれくらい知っている?」
「全然知らない」
「そうだろう。もちろん我もそうだった」

 話がどういうふうに繋がるのか分からず、私は続きを促す。

「それで?」
「授業になると、先生は雑談でいろんなことを語ってくれる。旧ソ連の各地に行ったときのエピソードだったり、現地の政治事情だったり、各地の文化の話だったり」
「へえ、楽しそう」
「そうだ。ロシア語は全然できなかったから正直我はダメダメな学生だったが、先生が節々で話す雑談は本当に楽しかった。自分があまり詳しくない地域にも専門家がいて、こんなに情熱を持って研究しているのだ。そう思うとワクワクしないか?」
「する、かも」
「言語は新しい世界への扉。どうせなら、全く知らない世界に飛び込んでみるのも悪くないと思うぞ」

 今までの私の人生にロシア語は存在しなかった。しかし、ついさっきから、ロシア語は私の人生に存在し始めた

 本当にロシア語を選ぶのも悪くない、そんな気持ちすら芽生えてきている。

「なんか、本当にその気になってきちゃったかも」
「そうか! それはそれは——」

「待つんだろし!」

 妙に高い声に振り向いた私が最後に目にしたのは。

 赤・青・白の3色が目に痛い、2足歩行の謎の着ぐるみだった。







「うわっ」

 私は飛び起きた。光のない部屋に静寂が張り詰める。スマホで時刻を確認したら5時半だった。

「なんか、悪夢を見た気がする……」

 風邪を引いたときに見るような、奇天烈でサイケデリックな何か。いや、途中までは普通に楽しい夢だったような気もしなくはない。


 5時半というのは普段よりもだいぶ早いけど、寝た時間を考えると睡眠不足ではないし、眠気もすっかり吹き飛んでしまった。ベッドから降りて机に向かうと、入学手続きの書類が目に飛び込んでくる。せっかく早起きしたんだし、さっさと書いてしまおう。

 寝起きの冴えた頭で埋めるべき空欄をさくさく埋めていると、「第二外国語」の希望を記入する欄が出てきた。説明によると、必修の外国語の授業が英語以外にもう1つあって、そこで学ぶ言語を選ばないといけないらしい。選択肢は7つ。フランス語、ドイツ語、中国語、韓国朝鮮語スペイン語、ロシア語、イタリア語。

「うわー、面倒だこれ」

 思わず独り言が漏れた。英語だけでも大変なのに、もう1つ選べだなんて。新手の拷問だろうか。とはいえ嘆いていても仕方がないので、どれか1つを書かなければならない。一応、2つ書いて運任せにすることも可能らしいけど。

 言語のリストを睨んでいると、そのうちの1つになんとなくピンときた。自分でもなぜか分からないけど、なんとなく良さそうな気がしたのだ。字のバランスが崩れないように均等な間隔で4文字を書き入れ、私は一息ついた。なんだかワクワクする。それは間違いなく、もうすぐやってくる大学生活への期待だった。

 残った欄も全て書き入れて書類を折り畳み、封筒と一緒に居間のテーブルに置きに行く。両親が起きたら不備がないかチェックしてもらって、朝のうちに郵便局に出してしまおう。


 私がカーテンを開けると、ちょうど朝日が地平線から顔を出したところだった。