天才クールスレンダー美少女になりたい

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【全文公開】終わりに魅せられて【唯だ、君と紡ぐ】

サークル「Rosen church」の紡ぐ乙女と大正の月合同誌『唯だ、君と紡ぐ』(コミックマーケット103発行)に文章を寄稿しました。タイトルに「唯」と「紡」が入っててお洒落すぎる。カプ厨が考えた題名? (まあそもそも公式が最大手カプ厨なんですけど)

唯だ、君と紡ぐ/紡ぐ乙女と大正の月非公式アンソロジーブック(Rosen church) | メロンブックス

評論とエッセイとレビューを足して3で割った感じの文章で、3000字と短いものの割と上手く書けた気がします。以前のつむつきオススメ記事やまぞくアンソロのレビュー記事(『ブラインド vol.1』寄稿)もそうですが、私はこういう短評っぽいのが一番得意なのかもしれません。長めの論考をもっと上手く書けるようになりたい今日この頃。(というか書けるようにならないと人文系院生失格である)

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書いたのが完結直前の最後のクライマックスに差し掛かった時期だったので、3巻までは読んでいる前提ですが、結末部分のネタバレはありません。









「紡ぐ乙女と大正の月」(つむつき)が好きだ。

理由はもちろんいろいろある。そもそも、私はストーリーの要素が強い作品を好きになりやすい。私が好きなきらら作品が「恋する小惑星」「まちカドまぞく」「ステラのまほう」「星屑テレパス」という時点でそのことは明らかだろう。それに、大正時代の女学校という舞台設定そのものが魅力的だ。大正浪漫のイメージもあるし、当時の女学校というのはいかにも百合漫画にふさわしい場ではないか。

でも、私がそれ以上に強く惹かれたのは、作品に漂う独特の雰囲気だった。楽しい学生生活の一幕を描いているのに、どこか影が見え隠れする。コマに映る少女たちの輝かしい日常を読めば読むほど苦しくなるのに、でもページをめくる手は止められない。

私を虜にしたその雰囲気を一言で表すならば、それは「終わりの匂い」だった。


大正時代の後期という時代設定が独特の雰囲気に大きく貢献しているのは間違いない。私たちは数年後の関東大震災で東京が壊滅することを知っているし、その後の日本が破滅的な戦争に向かってひたすら突き進むのも周知の通りだ。昭和初期が暗黒時代だというイメージが広まっていること、そして大正がそもそも十五年しか続かなかったこともあり、この時代には儚く切ないイメージが付きまとう。

時代設定だけではない。物語自体も「終わり」を読者に強く意識させるようになっている。いや、それどころか「終わり」こそが物語を貫く中核のテーマだと言ってしまってもいいくらいだ。

終わりを描くきらら作品は別に珍しくない。たとえば、完結した「けいおん!」や「きんいろモザイク」には卒業という明確な日常の終わりがあった。連載中の「ご注文はうさぎですか?」(ごちうさ)なら、メインキャラの誰かが木組みの街を離れるときがおそらく終わりになるだろう。特に、ごちうさに関してはアニメのエンディング曲などで終わりを見据えた表現がところどころに登場している。たとえば、二期エンディング「ときめきポポロン♪」の「そこからどんな 未来の私たちが見えているのかな?」や「何十年後もトモダチだよ 言わなくたって 決定だから」、三期エンディング「なかよし!○!なかよし!」の「いまは一緒がいいね ずっと一緒がいいね」などだ。全員が木組みの街に住んでいていつでも会えるような日常は、やがて終わる。このように、いわゆる日常系の作品であっても終わりが必ずしも排除されるわけではない。むしろ、終わりをほのめかす要素が作中に散りばめられることにより、何気ない日常の輝きが増すことすらある。この観点で言えば、つむつきはきらら作品の系譜の一つを間違いなく継承しているといえるだろう。

とはいえ、今挙げたような例での「終わり」は単に一つの物語としての終わりでしかないし、作品が完結しても登場人物たちの日常は続く。別に今生の別れというわけではないのだから、たとえ離れていても手紙やメールや電話で連絡を取れるし、機会があれば直接会うこともできる。

しかし、つむつきの場合は話が全く違う。なぜなら、時間の壁と社会の檻がハッピーエンドを二重に阻んでいるからだ。今のところタイムスリップに再現性がない以上、紡が望まずとも現代に戻ってしまう可能性がある(きららキャラット二〇二三年十一月号に掲載された回でもこの問題に触れられている)。現代に戻らず唯月の側にいるという紡の決意が仮に果たされたとしても、それは同時に少女たちが大正時代の華族社会から逃げられないことを意味する。男女の夫婦を前提とした「家」が何よりも優先される社会において、女性同士でしかも身分違いの恋人の居場所はどこにもない。また、紡が唯月を連れて現代に戻る駆け落ちエンドも可能性として考えられるが、その場合二人と旭や初野たちは二度と会えないだろう。

そういった紡たちを取り巻く状況を考えると、今この時点で彼女たちの日常が成立していること自体がもはや奇跡といえる。この奇跡を成立させているのはもちろんタイムスリップという設定だが、それと同じくらい女学校の性質も重要だ。華族社会に生きることを定められた少女たちにとって、社会からある程度切り離された女学校は人生における最後のモラトリアムの場として機能する。つまり、それぞれの家の方針の違いはあるにせよ、女学生のうちは比較的自由に過ごさせるしきたりになっていて、その自由なくして少女たちの日常は成立しないということだ。たとえそれが期限と条件の付いたまやかしの自由だったとしても。


モラトリアムと終わりという視点でこの作品を眺めると、少女たちの日常と対比される形でもう一つのモラトリアムが提示されていることに気づく。それはすなわち人間の一生そのものである。比喩的に表現すれば、人生は死という絶対的な終わりまで続くモラトリアム(猶予期間)だ。

一巻の終盤、紡を追い出そうとした当主(唯月の父)に対し、小さい頃から父に従って行動してきた唯月がついに公然と反抗する。当主に対し唯月は「せめて学生の間だけでも友人や紡さんと自由を謳歌してみたいと…自分の人生を歩みたいんです」と言い、唯月の言葉を聞いた当主は唯月の姿を亡き妻(唯月の母)に重ねた。

唯月の両親のかつての様子はほとんど描写されない。当主の回想の中で母が言った「私の先は長くないけど——だから自分のしたいようにするの 最期まで貴方と一緒に過ごしたいわ—」という台詞だけが明かされている。しかし、たったこれだけの台詞でも、読者にとっては十分すぎるほどだろう。

このシーンについてわざわざ説明するのは端的に言って無粋だが、この先の論において重要な部分なので、あえて言葉にさせてほしい。おそらく当主はかつて相手が長生きできない身であることを理由に唯月の母との結婚を躊躇っていて、それでも彼女の決意の固さに結婚を決めたと思われる。しかも、彼女は唯月を産んでいる。出産は健康な母親にとってすら大変な苦労と危険を伴うもので、しかも大正時代は現代よりも医療が発達していない。余命の短い彼女にとって唯月の出産がどれだけ負担だったかは想像するに余りある。それだけのリスクを負ってでも、彼女は「自分のしたいように」したのだろう。

唯月の母は死という迫りくる絶対的な終わりを知ってなお、当主と結婚して家族になり、最期まで自分の望むように生きた。その生き様を最も近くで見てきた当主が、たとえ僅かな間でも紡と「家族」でいたいという唯月の願いを否定できるはずもなかった。ここでは死の運命と定められた自由の喪失が、そして短い余命と残り僅かな自由な時間が対比されている。死が全員に必ずやってくる絶対的なものであるのと同様に、唯月にとって定められた将来はあまりに動かしがたいものだ。だから、彼女はそれを運命として受け入れ、限られた日々を悔いなく過ごすことに決めた。

そして、その姿に私たちは「終わりの美」を見出す。


この作品が今後どのように進むかは分からない。ひょっとすると、少女たちはあちこちで示唆された切ない終わりを回避して、完璧なハッピーエンドを掴み取ることができるかもしれない。それは細い針に糸を通すような難題だが、不可能とも言い切れない。あるいはもちろん、ほろ苦い結末に辿り着く可能性も十分ある。

しかし、どんな終わりが待ち受けているとしても、少女たちの「今」は、間違いなく輝いている。