天才クールスレンダー美少女になりたい

チラシの表(なぜなら私はチラシの表にも印刷の上からメモを書くため)

とある言語情報偏重オタクの世界観について

自分の世界に対する認識が他の人に比べて言語情報に依存しすぎている——そう気付いたきっかけは何だっただろうか。



確かに、昔からずっと言葉に飢えていた。

小学生の頃は国語の教科書を配られた初日に全て読んでしまったし、食べ物の裏にある成分表示を読むのが好きだったし、電車に乗れば車内広告を隅々まで読んだ。端的に言って、活字中毒だった。
どれだけ読んでも全く満たされなかった。三大欲求が食欲・睡眠欲・活字欲だった。

インターネットへのアクセスを得てからは、ルータの向こう側から降り注ぐ言葉の豪雨を積極的に浴びるようになった。
デイリーポータルZにドハマリしたし、中学生になってからはTwitterに張りつくようになった。Twitter廃人と化したのは代償としてあまりに大きかった気がするが、ともあれ活字欲は満たされるようになった。
そういえば、英会話学校の広告の欄外にめちゃくちゃ小さく書かれた「外国語の習得には日常不断の努力が必要です」みたいな注意書きを久しく読んでいない。インターネットで十分な量の言語情報が供給されるようになって、読む必要がなくなったからだろう。

でも、この程度の人はいくらでもいるはずだ。いくら言語情報に飢えているからといって、「見えている世界が言語に依存しすぎ」とまでは言えない。


本当のきっかけは、自分が文章以外の創作に対し抱いている矛盾し屈折した、内省するだけで嫌になるような感情の話だったと思う。

私は絵が一切描けなくて、音楽の素養もほぼなくて、そのことに対しかなりのクソデカ劣等感を抱えていた。一方で「それでも自分は文章を書くんだ」という矜持も一応あった。劣等感と表裏一体の矜持、本当にひねくれねじ曲がった自意識としか言いようがない。

ところがある日、能力ではなく、意欲と動機にふと焦点を当ててみたのだ。「私は本当に絵を描いたり曲を作ったりしたいのか?」
答えは一瞬で出た。いいえ、no、nein、нет、不是。

卵が先か鶏が先か。私が表現したいことが物語や情報など専ら文章向きだったから文章にしか興味を持てなかったのか、文章しか書けないから文章で伝えにくいものを表現したいとすら思わなかったのか。たぶん両方だと、私は勝手に結論付けている。

どうやら世の中には表現したいものが映像や写真的なイメージとして浮かぶ人がいて、私の想像もできないような方法で発想し表現しているらしい。ここ2年で絵を描く知り合いがぐんと増えて、そういう人々と創作について話す機会も爆発的に増えたので、割と頻繁にこのことを痛感している。

いや、イラストレータや映像作家といったビジュアル的な出力を生業とする人だけでなく、物書きにも映像タイプがいる。おそらく、「夕焼け、街を見下ろす丘、半泣きの少女」のような映像的イメージを起点として話を作るのだと思う。ちなみに私は基本的に台詞や地の文(シチュエーションにせよ語り手の感情にせよ)を起点に書いている。アファンタジアではないのでビジュアルを想像できないわけではないが、そのためには半ば意識的に頑張る必要がある。

他にも思い当たる節はある。

私は一応ワンマン同人作家なので、最低限のデザイン業務も必要に応じてこなす。ビジュアルデザインは当然ビジュアルの権化みたいなプロセスだが、自分は基本的に「これを見た人にどんな情報がどんな優先順位で伝わるか」しか考えていない。情報設計なら物書きにもできるし、むしろホームグラウンドとすら言える。
さすがに「この部分がガラ空きで不恰好では?」程度のことは考えるけど、正直自分のビジュアル的センスは信じていないので。おかげで色と形と配置と文字しか使わないマジの無機質デザインしか作れない。

自分で発案できないだけでなく、画像編集ソフトをどう使うかも見当がつかない。Inkscapeを前にすると(使ったことはないがAdobe Illustratorでも同じだろう)、私は翼をもがれた鳥も同然である。たとえ「こうしたい」という思念があっても、それを実現する能力がない。イラストでも、音楽でも、あるいは他の表現でも、同じことだ。

しかし、私はテキスト入力欄が出現している間だけは、翼を開いて飛べる。その様が美しいかはともかくとして*1、ともかく一応は飛べる。文字の配列とそれが表す木構造の間をある程度自在に行き来できるし、それぞれを操作することもできる。一般の自然言語だけでなく形式言語も扱える、つまりプログラミングも多少できる。


初めは離陸すらできなくとも、努力すれば空を自在に飛べるようになる。確かにそういう立派な人はたくさんいて、私はその執念にただ敬服するほかない。ただ、私はそうならなかったし、なれなかった。
たまたま空を飛べた怠け者は、地上で泥まみれになるのを嫌がった。怠け者が新しい飛び方を身につけることはない。




まあ、表現者としての自分が言語偏重なのは分かりきっていたことだ。しかし、あるとき気付いてしまった。
私のこの言語偏重の傾向は、表現する側に限らない。

思えば自分は一般のオタクに比べて絵単体から受け取れる感情が少なすぎるのではないか? 物語がセットになっていないと心を動かされないのではないか? というか文脈抜きのイラストに萌えた経験が少なすぎるのでは? 冷静に考えるとオタクがよく買ってるタペストリーとか画集とかの良さがいまいち分からないぞ? 性癖語りで毎回「こういう内面を持つキャラがこういう物語やシチュエーションに登場してほしい」ということを言っているけれど、他の人と比べてビジュアル的な要素に言及する頻度が異常に低くないか?

音楽に関しては、絵よりは幾分マシだった。この際メロディしかまともに聞き取れない音楽性の欠如は無視するとして、「このメロディが好き」みたいな感情は確かにある。それでもやはり歌詞という言語情報に偏って受容してしまう癖はあった。ぼっち・ざ・ろっく! がアニメ化したときは「ついに私も物語だけでなく音楽の話もできるぞ」なんて思っていたのに、気付けば私は結束バンド歌詞解釈マシンと化していた。



で、だからどうした、という話である。人間誰しも苦手なものがあって当然だし、実害があるわけでもない。なにが悪い

とはいえ、pixivやTwitterにはイラストが溢れていて、漫画や小説は大抵のジャンルにおいてイラストより少ない。いや、大抵めちゃくちゃ少ない。そうなると、自分はなんだかもったいないことをしているのでは、という気分になる。ビジュアルから得られるkawaiinessあるいは萌え、まあ言い方はなんでもいいが、そういうものを摂取できれば多少はオタク人生を豊かにできる気がする。

じゃあ実際どうするんだよ、と言われると非常に困る。本当に困る。

差し当たり、開き直って「全てを物語として消費してやる」という手はあるかもしれない。「萌え」とは違う方向性だが、ないよりはマシかもしれない。つまり音楽を物語にする逆YOASOBI、絵に挿話をつける逆小説というわけだ。

……オタクの大喜利かな?


まあとにかく、物語と結び付ける、あるいは結びついたものから始めるというのはそう悪くない案かもしれない。ライトノベルの挿絵とか、ノベルゲームのスチルやBGMとか、そういう物語を補完する要素に積極的に目を向けること。そうやって初めて、絵とか音楽とかを物語に従属させずに鑑賞できるようになるのかもしれない。特にノベルゲームは一枚絵だってラノベの挿絵と比べて遥かに力が入っているし、BGMの存在も大きいので、入口としては適切なのではないか。



というわけで、2023年はエロゲを積極的にやっていきます。今年もよろしくお願いします。

*1:そうして書くものの大半がTwitterというゴミ箱に流れていくのだから、正直美しいかというと首を傾げるほかない